動物が諦観する死

 今年の夏が始まったころからだろうか。飼い犬が餌を食べなくなってきた。老化である。犬は透析ができないので、肝臓が古くなると、なす術なく血液の流れが悪くなっていき、慢性的な不調に繋がると医師はいう。そういった話を、医師が、心配性で不安定になった母に優しく諭している姿が目に浮かぶ。

以前までは、どんな餌も飲み込むようにして平らげていたが、今はドックフードを、一つずつ口元まで近づけてやらないと食べようとしない。すこし目を離すと机の下やら椅子の上やらに移動する。餌に集中できず落ち着かないその様はイヤイヤ期の新生児みたいである。正月に親戚で集まってご飯を食べてるときによくみるアレだ。

 

生き物は誕生と死滅の過程を円を描くように泳いでいくという。身体は、生まれた直後と死ぬ直前が、同じように1番不完全であり、不具合であるからだ。そしてやがて無に帰る。その輪廻を今まさに飼い犬で感じている。今、こんなに冷静に文章にしているが、とても悲しいし、切ない。身体の状態は似ているのに全くその意味は違うのだから。

たぶん、もう長くはないだろう。後一年は生きてくれるだろうか。こんなことを書くと、不幸な方に転がりそうで怖い。この文章は不謹慎であろうか。でも、本当に長くはないのだろう。

 

そもそも犬(動物)は、死ぬことや生きることについてどのくらい関心があるのだろう。

犬にも、生きたいという(生存本能としての)気持ちはたしかにあるだろうが、何かを残したいとか、誰かに承認されたいとか、有意味でありたいとか、そういった、高次的な欲求は人間特有のものであって、そういった精神的な価値観とは無関係の世界を生きている。人間は、「死」を一つのタイムリミットとして計り、口癖のように「人生は短いから..」といい、時間に追われるように個人のアーカイブを更新し続ける。死にたく無いことの裏付けとして、生存本能とはまた別の、こういった自己実現的で精神的な欲求が生物的に存在する。しかし、犬(動物)の生きたいという気持ちは、そういった裏付けはなく、極めて物質的で完結した欲求の世界からなるものだ。美味しい餌と、温かい寝床と、少しの運動を通し、一個体として満ち足りてしまう。そういったある種、低次的で物質的な世界では、人間のような「生」への執着はないのだろう。

では、そういった世界から観える死を、犬はどのように傍観しているのか。

 

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