何にもない日 


何にない日が来た、受験勉強が終わってからは近所に住む友人とお泊まりをしたり、先輩と先輩の彼女とで連日にわたってずっとカタンをしていたりしたが、今日は本当に何にもなかった。


一日中ベッドの上にいた。何をしてたかというと、オードリーのラジオを再生しながらパスドラをして、スタミナが無くなったら小説を読んで、またラジオを聴きながらパスドラをして、エッセイを読んで、なんやかんやしていたらすでに日は沈んでいた。読んでいた小説もエッセイもかなり進んだ。楽しかった、どれも受験期間中にやりたかった事けど出来なかった事なので満足ではあるのだが、どうしても生産性のないことをし続けている自分にへのやるせなさが、空虚感と共に高じて、強迫観念に近い焦燥感に駆られた。ズンとお腹に異物が張り付いて呼吸がしづらいようなこの感覚が、受験期間に勉強をサボった時の後味にそっくりだった。

 

僕は描いていた絵に色でも塗ろうかと、辞めた学校で使うはずだった画材を引っ張り出し、新品の真っ白いパレットに次から次へと絵具を残していった。
水彩画についてのノウハウを何にも知らず、見切り発車で色を塗り始めたからか、イメージしていた絵とどんどんかけ離れていき、半分も塗り終えず描いてた絵をくしゃくしゃにして捨ててしまった。
絵なんて描かなきゃよかった、ただゲームをして、芸人のラジオで笑って、本を読んでもうそれで1日を終えればよかったのかもしれない。


しかし、なんでこんなにも焦燥感に駆られてしまうのか。何にもしない日には居心地の悪い罪悪感が残るのか。やはりぼくはまだ、何者かになりたがっているのだ。デザイナーの夢を諦めたあの日に、ただ太陽の光を享受して生きる植物のように僕は生きていくんだと誓った。そのはずだが、それでも僕はまた"何か"になろうとしている。


誰かが生み出した創作物をただ崇め、祈るように消費して生きていく人生に価値を見出せない人間は、このような焦燥感と共に居心地の悪さを噛み締めて生きていくか、自らが誰かをなぞって生み出した"何か"で自分を騙し、励ましながら模倣で偽りのその"何か"とその欺瞞に満ちた自分に縋って生きていくか、そのどちらかを選ばなくてはならないのかもしれない。