東京という所 

高校生の時、東京に行く以外の進路は無いと思っていた。それも高一の時からそうだった。

三者面談の時は、まず東京に行きたいんだと話し、選択肢を東京に絞ってから行ける大学を選んでいた。

 

 

当時なぜここまで東京に憧れていたのか。

 

僕はアイデンティティが欲しかった。言い換えれば、とにかく、僕は何か、何者かになりたかったんだろう。そして、東京に行けばそれを叶えてくれるんだろうと漠然とした感覚を持っていた。

 

思ってみれば、子供の頃から、何者かになりたいという願望が強かった。

小学校の頃は、好きなアニメに自分を出現させ、作り上げた敵キャラをボッコボコにする妄想をしていたし、中学の時は、一から創作したsfファンタジーの主人公として、妄想の中で僕はいろんな仲間を率いていた、高校の時もそうだ、学校の帰り道や塾の帰り道、好きなアーティストを自分に憑依させ、大きなステージで煌びやかにパフォーマンスをする自分を妄想しながら帰っていた。

 

しかし、このアイデンティティの無さからなる、何かになりたいという願望、これを抱えている人は僕だけじゃ無いはずだ。

 

特に僕のような、地方都市ほどでもないが、田舎でもない、便利でもないけど、不自由ではないという地に住む、中途半端な地方学生にこそ、このような問題は顕著に現れると思う。

なぜなら、生まれた時から、役割が与えられているような田舎に育ったわけでもなく、都会のヒステリックで混沌としたテンションが自分の空白をぼやかしてくれるわけでもない。つまるところ、アイデンティティのようななにかを自動的に与えてもらえるような機会が少ないのだ。自由は自由だが、自由なだけの空間。これといってやる事がなく、退屈な地方学生にとって、「ここでは無い何か」を目指し、地元では獲得できなかったアイデンティティを夢見て、何かがありそうな東京に憧憬を抱くことは、十分あり得る話だろう。

 

調べてみると、エリクソンっていう心理学者がいて、青年期(13歳〜19歳)の課題として同一性(アイデンティティ)の確立、をあげていた。つまり「自分は誰か、誰であれるか」、自分らしさを求め始める、そして、それを認知してもらうことに傾倒し始めると言っている。

snsでよく見るあの子の闇も、排他的なサブカルも、聞いてもいない衒学的な発言も、武勇伝も、僕のブログだって、自分らしさを求めた軌跡だと考えられる。人からの承認をとうして、その自分らしさを再確認(再構築)しているのだ。

 

このいわゆる自分探しに、苦戦していったやつに刺す光が、僕は上京なんだと思う。前述したように、東京は可能性に満ちている(ように見える)から。こうして、退屈な地方学生は居場所を求めるように東京を志していくのだと思う。

もちろん、そこにあなたのアイデンティティがあると保証されているわけではないが。

 

でも、もう今は自己完結した世界を楽しめている人にとても憧れている。自分の世界を生きて、自分の世界で死んでいく、自分らしさを自分で規定して、生きている人。

そういう人に僕はなりたい。まずは、弱さを認めることから始めてみようと思う。

平和上等。平凡上等。自分なりの人生に誇りを持つ。毎日のルーティーンに希望を生み出す。愛情加点で価値つける。一見地味な素敵さを噛み締める。(戸田真琴が言ってた)

今日もほどほどに未来を期待して生きる。自己暗示。自己暗示。自己暗示。自己暗示。