抑圧から解放される方法

 

人生は連続する苦しみに耐える修行のようなものです。積み重なる課題、許せない恋人、ムカつく上司、唐突な別れや、裏切りが私たちを抑圧し、そういったものは乗り越えても、乗り越えても、無情にも私たちを苦しめ、いつまでも自由にはしてくれません。

私たちが生きていくためには、そういった連続する地獄に耐えるしかないのでしょうか。苦しみから解放されるための手段とは無いのでしょうか。

もし、それがあるとしたら何でしょうか。それは、お酒か、薬物か、宗教でしょうか。いいえ、全て間違いです。

 

「加速」です。

 

はい。この世の中で苦しみから解放される唯一の方法、それは「加速」です。

ここでは、その「加速」について、教示します。

 

 

step1.部屋を暗くし、余念を引き起こす要因を隠しましょう

抑圧からの解放は、自意識からの解放であり、加速とは、その私たちを苦しめる自意識を停止させるための、作業です。自意識何という、私の私への認識などは、無為な苦しみしか生みません。ありとあらゆる意識を停止させるためには、それを引き起こす可能性から事前に潰しておく必要があるでしょう。放置している会社の資料や、窓からみえる外の世界が視界に入ってはなりません。出来るだけ部屋をシンプルにし、カーテンを閉めましょう。(家庭用のテープライトやステージライトを購入し、部屋をピンク色や緑色にするのも効果的です。)

今やっている作業は、ある種無限な空間の形成であり、加速とは没入です。そこに何かが侵入されてはなりません。もちろんですが、加速中、絶対にスマホを触ってはいけません。

 

step2.お酒を飲みましょう。

これは、加速するための一つの儀式です。お酒を飲んで酔っ払った状態は、とても加速した状態に近いですが、苦しみから解放される手段としては不十分です。飲酒というのは、ある意味で断続的な作業であり、「加速」を四次元的な空間として捉えた時、そのステージまで上がることはできません。加速とは、作為的であってはならないのです。加速とは、没入であり、呼吸です。しかし、文字通りの、ガソリンとしての効果は期待できます。

万物は初速です。お酒は、酔ってしまえればなんでもいいのですが、ウイスキーや焼酎といった高濃度のアルコールがベストでしょう。

 

step3.音楽をかけましょう

各々の好きな音楽をかけましょう。

しかし爆音に限ります。スピーカーで流せる人は部屋が揺れるほどに、それが出来なければ、イヤホンかヘッドホンで耳を焼き切る思いで音楽をかけましょう。曲は本人が乗れればなんでもいいのですが、初めは、アーティストの歌声を聞くのではなく、曲を完全な音の響きとして捉え、そこに身体を預けます。初めは、ハウスやテクノ、アシッドジャズやR&B的な、とにかく音として乗れる曲調を選びましょう。

 

step4.踊りましょう

後はもう、踊るだけです。各々が、各々の踊り方で、身体を揺らしてください。踊るといっても、曲に合わせて身体を揺らすだけですが、それは踊りです。身体が曲と一体化していればそれはもう踊りなのです。流した曲のなかで呼吸し、無限な空間を再現してください。全ての意識から放たれた、溶けていくような解脱感があなたの内側から展開されます。

ここからは、step3とstep4の連続です。

あなたが踊れる曲をあなたの踊り方で踊りましょう。とにかく規則的に踊っていれば身体は徐々に加速します。精神的に加速し続けることは、永遠に可能ですが、体力的には不可能です。徐々にアンビエントや、クラシカルトロニックスといった、ゆったりとした曲調にフェードアウトさせていくといいでしょう。

 

step5.虚脱感に耐えましょう

先ほども書いたように、永遠と踊ることは体力的に不可能であり、加速にも限界があります。加速している時は、その加速している実感すらなしに加速することができますが、疲れという意識は、その無意識の結界を真っ先にこじ開けます。その時、疲れという実感と共に、様々な現実的な意識を引き連れます。初めは、雪崩のような意識の侵入に、脳が麻痺し、不愉快に脳が疲れるだけですが、徐々に、脳が現状の把握を始めた時、心中したくなるような寂しさと苦しさがあなたを襲うことでしょう。

恋人がいる人は、恋人と踊ることをお勧めします。この不愉快な疲れも、どこか充実的な満足感に変わるはずです。恋人がいない人は、そうですね、自慰でもするか、強い薬を飲みましょう。

なんか、おれの人生、かなりシンプルになってきた。ほんのり興味のある勉強をして、たまにサボって、飯食って、本読んで、アニメ見て、深夜ラジオをわざとらしく笑って、寝る。それに飽きたら散歩する。ただそれだけを繰り返す生活をしている。これが自分のペースであって、これでいいと若干の祈りを込めて生きてる。

 

⇩こっから暗い話になる

 

もともと、大学に入学する際、社会や人との繋がりから、逃げるように、隠れるように、閉鎖的な生き方をする弱い自分を決意持って肯定した。健康のためとか、そんな苦し紛れな言い訳を残して。それで閉鎖的な生き方をずっと続けてたら、自我が死んで人形のようになった。

でもまあ辛くないし、楽しいよ。おれには、好きなアニメも作家もお笑い芸人もいるからね。ちょっとネガティブになったらお酒を飲んで、激しめなテクノを聴いて踊っていればいい。だからきっと大丈夫。楽しい。楽しいけど、まあ、ちょっとだけ寂しいよね。

お散歩

最近また狂ったように散歩をしている。それも、何かを思い出したかのように、または、魔法をかけられたみたいに、突然に出掛けるので、帰ってきた時、親がいつも心配そうな顔をしている。べつに、心配しなくても大丈夫。散歩が好きなだけだから。

 

散歩をしてる時って、「今世界で一番自由なのおれじゃん」みたいな気持ちになれるのでいい。人間が共生を図るために始めた線引きを一気に取っ払ったような気分になれる。例えば、時間とか、空間とか、法律とか、モラルとか、そういった枠組みを超越したような気分。

まあ、法の枠組みだけには収まらんといかんのだけど、散歩している時はギリはみ出してもいいらしいよ。なんか、そうらしい。夜の国道とかも別に横断しちゃってもいいらしい。

・今日は昼ぐらいに起きて、それからは一切体勢を変えずにベットでインスタをしていた。インスタとはいってもいわゆるオシャレなアレじゃない。名前も知らない若い女が音楽に合わせてダンスしてる15秒くらいの動画をずっとみていた。それだけで日が沈んで、部屋からは、皮肉のように綺麗なオレンジ色の空がみえる。それを、ベットの上で体育座りして、この世の終わりみたいに眺めていたら本当に死にたくなってきてしまったので、今、救いを求めるようにこのブログを書いている。

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・とは言いつつ、別に書きたいこともないのよね。最近は、本格的に何もしていないから。でも、学校には行っている。ふわふわとした気持ちで行って、ふわふわとした気持ちで帰ってきている。授業によっては内容に興味を抱けて、楽しかったりするけど、昨日の、かなり思いつきで取ってしまった図書館学の授業で、よくわからん分類法みたいなを学んでいるときは、マジで(内容が)入ってこなくて、ずっと起きていたのに、夢で見る映像みたいだったし、終わったときは本当に夢から醒めたみたいに何も覚えてなかった。

 

・未だに通学していると、大学に向かう電車とは反対の方角に行く電車に乗ってみたくなったり、降りなきゃいけない駅を行為的に乗り過ごしてみたくなったりする。通学していると、機械のように連続していく時間を捻じ曲げて、一時の自由を獲得しようとする、一種の破壊衝動に駆られる。逃避衝動でもある。

これはキモ過ぎるのだけど、友達に、女の子に言われたい言葉ランキング一位が「学校のことも、帰りのこと全て忘れて、どこか知らない場所に一緒にいかない?」であることを、(ウケると思って)告げたとき、「お前がそれを一位にしてる時点では、一生成長しないよ」と言われ、愕然とした。いや、愕然ともしてないか、そんなことはもう当たり前に知っていた。ただ、思わぬカウンターが飛んできて愕然としたフリをしてしまった。おい死ぬほどダサいな。

 

・夏休み中、あまりに暇すぎたので余りの給付金でswitchを買った。Liteのやつ。

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(安倍晋三さん、ありがとう!)

 

ソフトでゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド買ったんだけど、基本的に謎解き要素で構成されているのを知らなくて、バカすぎる俺は、全く解けず、ほとんどネットで攻略の仕方を調べて解いてしまった。俺は、もっと脳を溶かして、敵を倒しまくるゲームを思い描いていたんだよ。

ネットで攻略を見ながらやっていたので、もちろんやりがいなどなくて、リンク(俺)はラスボスを倒しても、ゼルダ姫を助けだしても一切嬉しくなんてなかったし、たぶんエンディングで、助け出したゼルダ姫に、めちゃくちゃ感謝されてストレートな愛を伝えられていたと思うけど、リンク(俺)は全部無視して、スマホでキャンディークラッシュしてた。ゼルダ、ごめん。

 

・ブログ、また更新するからみてね。

 

 

 

 

 

 

 

 

動物が諦観する死

 今年の夏が始まったころからだろうか。飼い犬が餌を食べなくなってきた。老化である。犬は透析ができないので、肝臓が古くなると、なす術なく血液の流れが悪くなっていき、慢性的な不調に繋がると医師はいう。そういった話を、医師が、心配性で不安定になった母に優しく諭している姿が目に浮かぶ。

以前までは、どんな餌も飲み込むようにして平らげていたが、今はドックフードを、一つずつ口元まで近づけてやらないと食べようとしない。すこし目を離すと机の下やら椅子の上やらに移動する。餌に集中できず落ち着かないその様はイヤイヤ期の新生児みたいである。正月に親戚で集まってご飯を食べてるときによくみるアレだ。

 

生き物は誕生と死滅の過程を円を描くように泳いでいくという。身体は、生まれた直後と死ぬ直前が、同じように1番不完全であり、不具合であるからだ。そしてやがて無に帰る。その輪廻を今まさに飼い犬で感じている。今、こんなに冷静に文章にしているが、とても悲しいし、切ない。身体の状態は似ているのに全くその意味は違うのだから。

たぶん、もう長くはないだろう。後一年は生きてくれるだろうか。こんなことを書くと、不幸な方に転がりそうで怖い。この文章は不謹慎であろうか。でも、本当に長くはないのだろう。

 

そもそも犬(動物)は、死ぬことや生きることについてどのくらい関心があるのだろう。

犬にも、生きたいという(生存本能としての)気持ちはたしかにあるだろうが、何かを残したいとか、誰かに承認されたいとか、有意味でありたいとか、そういった、高次的な欲求は人間特有のものであって、そういった精神的な価値観とは無関係の世界を生きている。人間は、「死」を一つのタイムリミットとして計り、口癖のように「人生は短いから..」といい、時間に追われるように個人のアーカイブを更新し続ける。死にたく無いことの裏付けとして、生存本能とはまた別の、こういった自己実現的で精神的な欲求が生物的に存在する。しかし、犬(動物)の生きたいという気持ちは、そういった裏付けはなく、極めて物質的で完結した欲求の世界からなるものだ。美味しい餌と、温かい寝床と、少しの運動を通し、一個体として満ち足りてしまう。そういったある種、低次的で物質的な世界では、人間のような「生」への執着はないのだろう。

では、そういった世界から観える死を、犬はどのように傍観しているのか。

 

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少年少女!!青春爆走!!

今週は資格獲得のための夏季講習みたいのがあり、毎日大学に通学していて、久しぶりに電車に乗っている。当たり前のことだが、電車にはいろんな人がいる。

 

 帰りの電車

 

目の前に、息苦しさを連想してしまうほどタイトなスーツを着たサラリーマンがつり革にもつかまらず立っている。その奥には、本当に真っ黒のワンピースを着て、本当に赤いチークを目の下に塗って、本当に厚底のドクターマーチンを履いて、本当にmcmのリュックをもった女の子がスマホの画面を細い指先で叩いている。サブカル女子はダークな雰囲気であることがここ数年のトレンドであるように思う。でも、おれが乗車してすぐ財布の小銭を撒き散らしてしまった時、優しく拾ってくれたので全くダークじゃない。

 

 電車が止まり、扉が開く。たくさんの人が流れるように乗車する。

 

大きなシルエットをした男性が、広く座席を使って、おれの二つ隣の席に座り、向かいの座席のダークなサブカル女のすこし左に、見ただけでフラれた気分になるほど綺麗で恍惚な女性が座った。

 

 扉が閉まる。再び電車が動き出す。

 

他にも、ガラケーを触るおじさんがいたり、どこかずっと泣きそうなおばさんがいたり、OLがいたり、大学生らしきグループがいたり、あらゆる種類に分類される概念がある。それは人の形をしている。

 

この人たち全員にも、自分のように、いくつもの過去があって、入り乱れた人間関係があって、これからの不規則な未来と共に今に至る。そう考えるとあまりの情報量の多さにクラクラとしてくる。でも、つい先週までほとんど引きこもりみたいな生活をしていた自分にとっては、どこか社会の一部になったみたいで嬉しくも思う。

 

 電車が止まる。扉が開き、さらに、女子高生の集団が流れ込んでくる。

 

 女子高生らは、路線が異なるのか、ホームに残ったお友達に、車内から身振り手振りのみで別れの挨拶を告げる。窓に「バイバイ」と書いた指紋を残す。

 

このような中高生が放つエネルギーは周りを無意識に圧倒する何かがある。中高生という責任が薄い環境であるからこそできる「ただ今を一心に生きる」その態度が、生命のエネルギーとなって輝いてみえる。サブカル女も、シルエット大男も、俺も、恍惚の女も、おじさんもおばさんも、彼女らの光によって薄まり、その影となって、彼女らのドラマを引き立てるキャストのように見えてしまう。

 

しかし、彼女らの放つその生命エネルギーの輝きは彼女らだけのものではない。私たちにもその光源はまだ残っている。そのはずである。

 

「ただ今を一心に生きる」ことができるのは、青春している人特有のものであり、美しいのだけど、それはたしかに、歳をとると、簡単にできなくなってくる。家計のこと、健康のこと、明日の会議のこと、親のこと、子供のこと。いつまでも現実的な憂いが、余念となって頭に渦巻き生活している。

それでも、青春が「ただ今を一心に生きる」ことにヒントがあるとしたら、それを瞬間的に再現していくことは可能であると思うし、皆、実際にそれをしているのではないだろうか。

それが、旅行なのか、グルメなのか、ゴルフなのか、VRなのか、風俗なのか、ギャンブルなのか、わからないが、それが一過性なものであっても、瞬間的なものであっても、その時、「ただ今を一心に生きる」ことを実現できた時、その時だけは、その人は確実に青春をしていて、女子高生らの放つ生命のエネルギーとも変わらない光量で輝いているのではないだろうか。彼女らのように、その輝きは持続しないけれど、その瞬間的な光量は彼女らをも上回って、彼女らを逆にただのキャストへ転換されることだって可能だ。

 

その瞬間は、あまりに儚くて夢みたいでも、中高生の思い出なんて、まさに儚い夢のようなものなので、そんなことで感傷するぐらいなら、その感傷もろとも鼻で笑ってしまえばいい。

 

 電車が駅に到着する直前、駅内の光が、電車の窓から入ってくる。

 

 向かいのサブカル女の座る座席の下で、取りそびれた1円玉がその光をもって反射し、輝いている。

 

 

キモい夢

キモい夢を見た。

 

なぜかおれがパパ活をしているという、もう設定からキモいんだけど、夢の中の新宿駅南口でパパを待っていた。

 

でも、待っても待ってもパパが来なくて、何度も何度も連絡をするんだけど一向に繋がらず、自分には価値がないんだと思い込んで公衆の面前で泣き出すという夢。

 

パパ活をしてパパにお金を貰えることが、自分の価値を認めてくれているみたいで嬉しかったけど、パパが来ないから自分に価値がないみたいで、泣いた。泣いたら、周囲が気にしてくれて、自分に価値があると思い直せるからという理由で夢の中のおれは一緒懸命泣いてた。

 

さらにキモいのが、起きた時、実際に自分も泣いていたということ。自分、何がしたいねん。夢でパパ活に執着する女の苦悩を再現するな。別にパパ活で自尊心を満たしてる女に一切共感はしないんだけど。

 

最近本当に上手く寝れなくて困ってる。寝れても眠りが浅いから夢ばかり見て本当に疲れる。

 

いつも3時ぐらいにはベットに入って寝ようとするんだけど、やっと寝れるのは朝の6時ぐらいで、それでも8時ぐらいに一旦完全に目覚める。水を飲んだり、ヨーグルト食べたりして一回切り替えて、8時半ぐらいにもう一回寝るんだけど、いつも途切れ途切れに夢を見ながらまた12時ぐらいに完全に目覚める。

ネットに書いてる対処法をいろいろ試しているけど上手くいかない。ネットに書いてあったけど、脳が「ベット=寝れない場所」と認識してるのかもしれない。

 

いやー、もう起きてる時慢性的にずっとだるい!たすけて

 

このことを親に話したら、リポスミンを買って来てくれたので試してみることにする。無理だったら病院いく。おやすみ。