少年少女!!青春爆走!!

今週は資格獲得のための夏季講習みたいのがあり、毎日大学に通学していて、久しぶりに電車に乗っている。当たり前のことだが、電車にはいろんな人がいる。

 

 帰りの電車

 

目の前に、息苦しさを連想してしまうほどタイトなスーツを着たサラリーマンがつり革にもつかまらず立っている。その奥には、本当に真っ黒のワンピースを着て、本当に赤いチークを目の下に塗って、本当に厚底のドクターマーチンを履いて、本当にmcmのリュックをもった女の子がスマホの画面を細い指先で叩いている。サブカル女子はダークな雰囲気であることがここ数年のトレンドであるように思う。でも、おれが乗車してすぐ財布の小銭を撒き散らしてしまった時、優しく拾ってくれたので全くダークじゃない。

 

 電車が止まり、扉が開く。たくさんの人が流れるように乗車する。

 

大きなシルエットをした男性が、広く座席を使って、おれの二つ隣の席に座り、向かいの座席のダークなサブカル女のすこし左に、見ただけでフラれた気分になるほど綺麗で恍惚な女性が座った。

 

 扉が閉まる。再び電車が動き出す。

 

他にも、ガラケーを触るおじさんがいたり、どこかずっと泣きそうなおばさんがいたり、OLがいたり、大学生らしきグループがいたり、あらゆる種類に分類される概念がある。それは人の形をしている。

 

この人たち全員にも、自分のように、いくつもの過去があって、入り乱れた人間関係があって、これからの不規則な未来と共に今に至る。そう考えるとあまりの情報量の多さにクラクラとしてくる。でも、つい先週までほとんど引きこもりみたいな生活をしていた自分にとっては、どこか社会の一部になったみたいで嬉しくも思う。

 

 電車が止まる。扉が開き、さらに、女子高生の集団が流れ込んでくる。

 

 女子高生らは、路線が異なるのか、ホームに残ったお友達に、車内から身振り手振りのみで別れの挨拶を告げる。窓に「バイバイ」と書いた指紋を残す。

 

このような中高生が放つエネルギーは周りを無意識に圧倒する何かがある。中高生という責任が薄い環境であるからこそできる「ただ今を一心に生きる」その態度が、生命のエネルギーとなって輝いてみえる。サブカル女も、シルエット大男も、俺も、恍惚の女も、おじさんもおばさんも、彼女らの光によって薄まり、その影となって、彼女らのドラマを引き立てるキャストのように見えてしまう。

 

しかし、彼女らの放つその生命エネルギーの輝きは彼女らだけのものではない。私たちにもその光源はまだ残っている。そのはずである。

 

「ただ今を一心に生きる」ことができるのは、青春している人特有のものであり、美しいのだけど、それはたしかに、歳をとると、簡単にできなくなってくる。家計のこと、健康のこと、明日の会議のこと、親のこと、子供のこと。いつまでも現実的な憂いが、余念となって頭に渦巻き生活している。

それでも、青春が「ただ今を一心に生きる」ことにヒントがあるとしたら、それを瞬間的に再現していくことは可能であると思うし、皆、実際にそれをしているのではないだろうか。

それが、旅行なのか、グルメなのか、ゴルフなのか、VRなのか、風俗なのか、ギャンブルなのか、わからないが、それが一過性なものであっても、瞬間的なものであっても、その時、「ただ今を一心に生きる」ことを実現できた時、その時だけは、その人は確実に青春をしていて、女子高生らの放つ生命のエネルギーとも変わらない光量で輝いているのではないだろうか。彼女らのように、その輝きは持続しないけれど、その瞬間的な光量は彼女らをも上回って、彼女らを逆にただのキャストへ転換されることだって可能だ。

 

その瞬間は、あまりに儚くて夢みたいでも、中高生の思い出なんて、まさに儚い夢のようなものなので、そんなことで感傷するぐらいなら、その感傷もろとも鼻で笑ってしまえばいい。

 

 電車が駅に到着する直前、駅内の光が、電車の窓から入ってくる。

 

 向かいのサブカル女の座る座席の下で、取りそびれた1円玉がその光をもって反射し、輝いている。