抽象vs具象

・机の上には二口だけ飲んでそのままにされたペットボトルが数本無造作に並べられていて、その横にまだビニールに入ったままの本が新品で積まれている。床には、タオルと何かの書類、脱ぎ散らかした靴下やスウェットが散乱していて、その先の空いた窓からは夜の空気が流れて込んできている。それはどこか部屋の空気が悪い気がして窓を開けてるのだが、この時期の夜はまだ冷えるので、それを掻き消すみたいに、ストーブをつけて部屋に温度を足している。

ここずっと、自制心のようなものがない。神経を抜かれた魚のような感じ。自分を表面を象っていくような自意識、生活の、あるいは生存への手応えみたいなものも全くない。

べつに、いつもそういう実感をもとに生きてきたわけではないけど、ここまで自分を他者のように感じ、自分が自分自身への観客であるような、そんな気分が持続しているのはすこし久しぶりだ。

いつもなら、本もできるだけ中古で買うし、洗ってないタオルや服が散らかっていたらそれなりの強迫観念をもつのだけど、まったく全てが他人事のようである。

でも、案外(案外というか、当たり前だけど)そういう感覚はどこかお酒を飲んだように心地が良くて、水に溶けたような感覚がそこにある。

3月に入ってからは特にその感覚は続いていて、金が入らないのに、金を使い続けているから、止まることなく減り続ける貯金額を見て、いつも心の中で笑っている。

べつに、自分を冷遇する感覚に気持ちよくなってるわけでも、自虐的なることに酔ってるわけでもないけど、単に、素直な感情のまま、躊躇のない生活をしているだけである。

でもなぜか、そういった態度は、外の世界への依存や、生存への執着がなく、一心に破滅に向かっていく感じがあって、どこか健全な気もするのだ。ナチュラルな欲求のために、結果自分を削って浪費していく感覚は、一つ一つ装飾を取り外していくような、謙虚さと素直さがある。

でもなら、こんなことブログにするなよってね。勝手に破滅しろよ。たしかにね。ほんとそうだよ。

 

・大学一年は、本当に暇だった。ほとんど遠隔授業だったし、バイトとかそういう類のものしなかったから、有り余った時間をほとんど本やアニメに使ってた。

結構な数の本を読んでアニメをみて、自分にとっては幸福だったなと思っている。そしてそういった文化的な生活は、自分の最低限の幸せなのかなとも思った。

自分自身に生産性を見出して、メタ的に人生を計画していくには、それなりの狂気とともに、抽象的で祈りのような希望をみつける必要があるけど、自分にとっての祈りは、最低限の(それ)かなと思った。(それ)とは、さっき書いたような文化的な生活。

そういった、自分への祈りがわかれば、もうそれを維持するだけで、ある程度人間の空虚な部分というか、最初から設計された空白な部分が埋められるから、自分自身の最低限の幸せを自覚するのは大切なんじゃないかなと思ってる。所詮祈りでしかないんだけど。

なんか、おれの祈り、まったく人間らしくないなと思うけど、(人間らしい祈りとは、愛とか、地位とか?) 人間らしくいれるのは、その人自体が強くないと厳しいし、自分の最低限なんてそんなとこよね。それでいいのよ。自分よ。