薬を飲め 

偏頭痛。

土曜の深夜、俺はこめかみ辺りを圧迫されるようなズキズキとした痛みに悩まされていた。

寝てしまえばなにもかも解決なのだが、その痛みによって寝ることはできず永遠に痛みを耐え続けなければならないという最悪なループに囚われていた。

 

俺はこのループを抜け出すためになにかアクションを起こそうと重い頭と腰を上げ冷蔵庫の扉を開けた。

一人暮らしならでは閑散した冷蔵庫の中から取り出したのはいつも朝ごはんのとき使っている5枚入りのロースハムと飲みかけの麦茶。

その2つを手に倒れこむようにベットに戻り、最後の余力で近くの窓を少しばかり開けた。

 

心地よく入り込む春愁とした夜風。

右手に塩気のあるハム。左手によく冷えた麦茶。

 

ドクンドクンと脈を打っていた頭痛もハムの塩分と麦茶のすっきりとした味わいによって、これは薬物がなにかと言わんばかりに快方に向かう。

春の夜風が重い頭と火照った体を心地よく癒してくれる。

 

油断して携帯を触ってしまいそうだが俺は触らない、ブルーライトほどの偏頭痛の天敵はない。

俺はただハムと麦茶を両手にボーッと外を見ていた。

 

あ、何か聞こえる。

近隣住民の会話だ。

 

そりゃそうだ、ここは寮、窓を開けたら近隣の会話が聞こえるのも無理はない、この行為はあまり良くないのかもしれないが俺は暇つぶしにその会話を聞いていた。

なにやら一方が恋愛相談をしていて、そのまた一方がそれに助言やツッコミを入れているようだった。

 

人の恋愛相談を第三者の目線で聞くなんて滅多にないことでそれを聞いていると背徳感をそそり、いつしか夢中になって聞いている自分がいた。偏頭痛なんてすっかり忘れ、どんな小さな会話も聞き逃さまいと必死に耳を傾けていた。

 

が、必死になって近隣の会話に神経を使うのに疲れたのか、その暇つぶしもすぐに飽き、おれは何をしてるんだろうと虚しさと共に我にかえった。

 

引き込まれた虚無感と共に再び訪れたのは偏頭痛。

忘れいたのあの痛みがドクンドクンと脈を打ってまたもや訪れた。

 

くそ、イッテェ、、

つい声に出てしまうほどだった。

 

俺また擦り切れかけた体力でこう叫んだ、

 

hey siri  ジブリのサントラ音楽集をながして!

 

流れたのは、ウルスラの小屋へ だった。

 

春の夜風と、ジブリがこりゃまた合うんだ。。

体全身から邪念が抜けていくこの感覚、邪念と共に頭痛も抜けていく。

机、椅子、棚、冷蔵庫と淡白とした部屋が、映画のワンシーンのような光景に姿を変える。

 

あまりの心地よさにこのまま寝てしまおうかと布団を(ここでは毛布と呼ぶべきか)体に引き寄せ目をつぶろうとした時、

空いていた窓の隙間からedmのような重低音が聞こえた。

そのedmがジブリのオーケストラと混ざる。

 

edmと、ジブリがこりゃまたあ、、

 

合うわけない。

俺は空いていた窓をそっと閉めそのままベットに横たわった。

華麗にとれていたジブリと夜風の連携も絶たれ、天国とかしていたこの空間も一気にバランスを欠いた。

 

ドクンドクンと待ってましたと言わんばかりに再び現れる偏頭痛。

 

俺なんかした?

 

つい弱音が出るほどだ。

 

 

 

いや違う、なんかしたのでない、なんかしてこなかったからだ。

ベットのシーツを噛み締め、俺はついに哲学的な思想に回帰した。

 

これは俺の人生の暗示なのだと。

 

俺はいつも苦しみ(ここでいう偏頭痛)が訪れても、瞬間的な快楽を求め一時的な解決策でしか自分を解放させず、根本的な重点から避けてきた。

 

そう、先送りしてしまう怠惰な自分への戒めだったのだと。

 

途中で食べたハムも開けた窓も、ジブリのオーケストラだって偏頭痛そのものとは向き合ってないのだ、向き合っていたのはただの苦しみだけだ。

 

偏頭痛は自分への教訓だったのか。

 

 

そんなことを考えていると気付いた頃には寝ていて朝になっていたし、なんかまだ頭が痛かった。