起こしてよ!

 

・最近、本当に向上心がない。かつてあったはずの「外国語、ちょっと頑張ってみるか」とか、「プログラミングの勉強してみるか」とか、そういうある種の野心みたいなものが、なくなりつつある。そしてそれらが新たに湧いてくるような気配も毛頭ない。

もちろん、一切の欲がなく涅槃みたいな境地に達したとかでもない。

教養深い人間になりたい。莫大な貯金も欲しい。安定した生活も憧れる。英語も話したい。

そう願望はある。願望はあるがそれらは具体的な意義をもっておらず、目標とは到底いえない、ふわふわとした蜃気楼のようにただそこにあるだけなのだ。それらを叶えようと思索することもなく、蜃気楼を眺めるだけの自分をどこか受け入れてしまっている。

昨日と今日、PSYCHO-PASSというアニメを止まることなく観続けていた。たった2日で一期と二期すべて観たのだ。そこに罪悪感は存在せず、「余生、気持ちのいいことだけしてたい」になっている。

もう誰か俺を叩き起こしてくれ。このままじゃ明日にでも麻薬の入った水槽に身を沈めに行って帰ってこなくなるかもしれない。

 

・俺は自分の感性によって目の前の現象を処理する際、俯瞰的な立場に立ち、分析するように現象を感受することがある。

「こういうシュチュエーションにこれとこれが重なっている、故に○○である。」といった具合に、自分の中における知識に紐付かせて、感覚を下ろし、感性を刺激する。

自分の知識(こういうシュチュエーションは感傷的でありがちだな〜)を通し現象を捉えることで1人、俯瞰の目を完成させ、感覚を確固たるものへ変える。

俯瞰的な観察による感性の刺激は、内から自然に沸き立つ情緒性というか、主体的な刺激とは少し違う、その景色の情報をただ理解しているだけな気がする。もちろん、知識によって解析された感覚が偽物であると言いたいわけではなく、情緒性とは少し別の感覚に分類されているように思う。

これらは、物語を過剰摂取しがちな人(シュチュエーションの引き出しが多い)や、自己肯定感の低い人(自分の感性に自信が持てない)がしがちな行為だと思う。

ごめんなさい。俺の文章が下手で上手く伝えられていないよね。一応、「内から湧きだつ、陶酔や情熱」と「俯瞰的な理解における、理屈に基づいた感覚」は感性を刺激するという意味では同じだけど、どこか別ものだよね。という話しをしたかったんだ。

感性は知識によって構成されていると聞くけれど、それだけじゃあまりに単純すぎる気がするんだよな〜。

さっき虫が部屋に入ってきたので容赦なくシバいた。虫は嫌いだけどはやく夏にはなって欲しい。夏がなすシュチュエーションは好きだから。

 

・入院していた飼い犬が帰ってきた。

以前から鼻呼吸が上手く出来ていなくて、ご飯も食べず、常に具合が悪そうにしていたので、その都度かかりつけの動物病院に通って薬を処方してもらっていたんだけど、一向によくならないので北大の動物病院に紹介状を書いてもらった。

病状は歯周病で、歯根部分の感染が鼻腔の方まで影響していたみたい。病気の先生も見たことないほど歯石が溜まっていたらしい。

いつも歯磨きはしていたんだけど、犬の骨格によってはなかなか歯石が取りずらかったりするみたい。

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おかえり

 

 

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・高めのイヤホンデビューだよ